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岩崎城
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駐車場から入場すると、いきなり凄い土塁に圧倒される
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二の丸 庭園と案内あるが、ここは馬出
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長久手の戦いでは、秀吉軍を長くここへ留めていたので、家康側が勝利した
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二の丸と本丸を繋ぐ土橋
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当時は土の橋でもっと狭かっただろう
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水琴窟 ひしゃくで石に水をかけると、優しい音色が聴けた
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土橋の両側の空堀は、惚れ惚れするほど素晴らしい
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一番高い所にある櫓台
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櫓台の上に表忠義碑が立つ 城兵全て討死したのが、家康への忠義と言う事らしい
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模擬天守だが中々立派
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井戸跡 本丸隅にあるので、水汲みも容易だったと思われる
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隅櫓跡 隅櫓も本丸にあり便利だったことでしょう
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天守の入場は無料
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堅固な要塞 城兵300で何千の池田恒興軍を、釘付け出来たのも分かる気がする
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城主の丹羽氏重 刀劇隊では女性が演じている
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岩崎城が長久手の戦いに大きく関わっていたことがよく分かった
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秀吉軍と家康軍の動きが良く分かる
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岩崎城歴史記念館も入場無料 展示物の写真は禁止
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爺さん顔の、城主丹羽氏重像
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岩崎城発掘調査の際に発見された古墳 6世紀のもの
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空堀に下りると、また圧巻な眺めに感動する
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丹羽氏の菩提寺の妙仙寺 中々立派な山門
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妙仙寺の臥龍の松 丹羽氏一族の墓があると言うので立寄ったが、一族の墓は何処にあるのか分からなかった
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大草城
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熊野社に城址碑がある
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実際の大草城跡は熊野社の方でなく、民家の裏の竹藪林らしい
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岩作東城
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城址碑は長久手市役所にある
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新居城
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天守を模したレストラン
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新居城跡は、城山公園として整備されている
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本丸跡
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本丸周りに残る土塁
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天守のレストランで昼飯をと思ったが、今日は定休日だった
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もう桜祭りの準備も出来ている
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長久手古戦場公園から、長久手の戦いの史跡巡り 公園周りの史跡は歩いて巡る
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勝入塚
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池田勝入斎恒興が戦死した場所
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池田恒興は、岡崎への中入りを秀吉に進言する
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古戦場公園は、長久手の戦いの激戦地の仏ケ根にある
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庄九郎塚
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池田恒興の長男、池田之助(幼名庄九郎)が戦死した地
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之助は父の討死を聞き、父の陣へ引き返した所を討取られた
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武蔵塚
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森長可が戦死した所
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秀吉側の大将が次々討取られている 総大将だった秀次は逃げ返っているが、彼が戦死していたら豊臣時代も大きく変わっていただろうに
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血の池公園
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鎧かけの松 戦い終り、重たい鎧を脱ぎホッとした兵士の姿が思い浮かぶ
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長久手城跡
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長久手城主は、岩崎城主丹羽氏次の姉を妻とした、加藤太郎左衛門忠景
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加藤太郎右衛門忠景宅趾の石碑
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御旗山
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家康は、羽柴秀吉方の池田・森両隊の様子を伺いながら、御旗山の頂上に金扇の馬標を立てた
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現在山頂には地元の人々が祭った富士社
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徒歩の巡りは御旗山まで 古戦場公園に帰る途中、仏ケ根公園があるが、ここは子供広場で特に史跡はない
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長久手市郷土資料室
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無料で入館出来る
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長久手の戦いの発端から和睦までの説明
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2階は展示室
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豊田猿投地区にもあるが、長久手も棒の手が盛んのようだ
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色金山
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山頂にある家康が腰掛けた床机石 腰掛けるような石でなくごっい岩
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小牧を出発した家康軍は、色金山に陣を敷き軍議を行った
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色金山は長久手市一番高い山とか 展望テラスから名古屋市まで見えた
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首塚
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安昌寺の雲山和尚は、合戦の戦死者を埋葬し塚を築いて供養した
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常照寺
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常照寺に三将・池田恒興、池田之助、森長可の墓がある
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小さな三将の墓 後ろの看板は朽ちて落ちていたのを立て掛ける
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桧ケ根・堀久太郎陣地
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秀吉方の武将・堀久太郎秀政が陣を敷いた所
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秀次軍を破って追撃して来た家康軍を、桧ケ根で迎え討つ 長久手の戦いの局地戦で、秀吉側が勝った唯一の場所
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木下勘解由塚
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徒歩で逃げて来る秀次に馬を与え逃がし、勘解由はここで防戦し奮戦したが討死にする
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今日は楽しく長久手の戦いの史跡巡りが出来た 大満足する
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