|
細野城(再訪)
|
|
|
鶴岡山登山道が登城道で、正福寺にも登山口があるが、B鶴岡山登山の看板が立つここ(正福寺北東500m辺り)が、城址へ一番近いと思われる
|
|
|
入口に細野城址0.4kmの標識がある 因みに正福寺からだと1.8km
|
|
|
登城道は整備されて歩き易いが結構キツイ 0.4kmとあるが、絶対もっと長い
|
|
|
尾根道の大手道 標識がしっかりあるので助かる
|
|
|
大手曲輪の下を通ると、@曲輪へ上がるA虎口 ここまで25分かかる
|
|
|
虎口を上がると@曲輪の標識がある主郭
|
|
|
主郭の北西側、大手曲輪との間にあるB堀切
|
|
|
B堀切は深くなくて、直ぐ降りれる
|
|
|
B堀切の先は大手曲輪 ここにのぼり旗が立ち、下からも見えるとネットにあったが、旗は破れて絡まっていて、下からは望めなかった
|
|
|
大手曲輪の更に奥に、堀切らしきものが見えるがハッキリしない
|
|
|
大手曲輪からの眺望はとても良い 写真の中央左に正福寺が見える
|
|
|
@曲輪の中央に大きな土塁があり、主郭を2つに分断している
|
|
|
主郭の南側に、幾つもの看板が立っている
|
|
|
この縄張図は分かり易くてとても良い
|
|
|
細野城は、1584年の小牧長久手の戦いの際か、1600年の関ケ原の戦いの際に築かれた、と書かれている
|
|
|
主郭の南東側にあるD喰違虎口 喰違の意味が良く分からないが、登城して来た北西側が大手虎口で、この南東側は搦手虎口と思われる
|
|
|
D喰違虎口へ入る手前のA土橋 両側に深い竪堀が谷へ落ちている
|
|
|
北東側へ落ちる竪堀
|
|
|
北東へ落ちる竪堀の上に、台所跡の標識があるが、先ほどの縄張図には載っていない
|
|
|
A土橋とB搦手曲輪の間のE堀切
|
|
|
B搦手曲輪
|
|
|
B搦手曲輪の東にあるF堀切 縄張図と合わせた標識があり、悩まずに遺構を確認出来る
|
|
|
B搦手曲輪から@曲輪の方向を見る 曲輪と堀切が交互に連なっているのが良く分かる
|
|
|
かなりキツイ登城道だったが、城郭や堀切の遺構が良く分かり、楽しい細野城址巡りとなった
|
|
|
下城後、正福寺に立寄る
|
|
|
正福寺の裏にある鶴岡山登山口 細野城址まで1.8kmの標識があり、こちらからの登城は更に大変と思われる
|
|
|
鶴ヶ城(再訪)
|
|
|
登城口は、中央高速沿いの農道にあるが、県指定史跡なのに駐車場は無い
|
|
|
登城口にある鶴ヶ城縄張図 入口の所にP5台可とあるが、駐車場は見当たらなかった
|
|
|
登城口から直ぐに急階段が続く 登城時間20分と案内あり
|
|
|
大きくて立派な城址碑 美濃源氏土岐氏古城と刻まれている
|
|
|
急階段が続き結構キツイが、城址までの距離は短い
|
|
|
5分程で城址の入口の2ノ木戸跡に着く 登城道の2番目の木製の門があったようだが、その面影は全然ない
|
|
|
西出丸下の腰曲輪
|
|
|
西出丸跡 眺望抜群と案内ある
|
|
|
西の出丸だが、南に張り出した尾根の先端にある
|
|
|
中々素晴らしい眺望 東側の高い山は恵那山と思う
|
|
|
西出丸の土塁
|
|
|
御殿場跡 本曲輪の南下にあり、往時は城主の立派な御殿が建っていた、と思われる
|
|
|
遺構が点在していて、忙しい散策となる 謎の穴石と案内あるが、丸くくり抜かれている穴は、何なんでしょう?
|
|
|
鶴ヶ城の見所の一つは、高い切岸 東出丸の壁も高くて急な切岸
|
|
|
葵の井戸 落城の折に葵姫が身を投げたとあるが、誰との戦いだったのか説明が無い
|
|
|
葵の井戸の上の切岸は一段と高い 上は本曲輪になる
|
|
|
本丸輪に上がる手前に東出丸があり、ここも眺望抜群と案内ある
|
|
|
東出丸からの眺望は西出丸からと全く同じ
|
|
|
本曲輪へ上がる虎口 縄張図には枡形虎口と書かれている
|
|
|
広い本曲輪で、本丸跡の標柱や城址案内や、神社も2つある
|
|
|
鶴ヶ城は、鎌倉時代に美濃国守護となった、土岐光衡(みつひら)による築城 ここは神箆(こうの)という地で、神箆城、土岐城とも呼ばれている
|
|
|
県指定史跡で、城郭や遺構がしっかり残り、案内もあるので、楽しい城巡りとなる
|
|
|
本曲輪の北側の斜面も切岸の案内ある ほぼ垂直に落ちる壁で、人が削った斜面とは、とても思えない
|
|
|
城豊神社と表札ある
|
|
|
土岐神社 南北朝時代に活躍し、足利幕府を支えた土岐氏を祀っている神社、と案内あり
|
|
|
土岐神社の裏に、大堀切があるが、ここからは降りれない
|
|
|
本曲輪からの眺望 のぼり旗に、土岐源氏・土岐一族発祥の地、とあるのは良いが、素性が定かでない明智光秀が、一緒に書かれているのはちょっと違和感あり
|
|
|
土岐神社下にある大堀切は、西出丸から降りるこの道で行ける
|
|
|
一応丸太階段になっているが、かなり朽ちていて危険
|
|
|
何とか大堀切の下にたどり着く
|
|
|
土岐神社下の切岸 圧巻の高さが何とも凄い
|
|
|
大堀切を奥から見ると、高くてキレイなV字をしていて、見栄えがとても良い
|
|
|
一日市場館(再訪)
|
|
|
八幡神社が館跡 一日市場館は、鶴ヶ城を築いた土岐光衡の居館
|
|
|
明智光秀が、土岐氏始祖・光衡の直系の様になっているのが、気に入らない 近くに土岐頼貞の墓があるようで、後で立寄ろうとしたが、何処にあるか見つけれなかった
|
|
|
明智光秀ゆかりの地の立派な石碑に、土岐光衡と明智光秀の像が並んである
|
|
|
鎌倉幕府御家人・源土岐三郎光衡公の像 源頼朝が富士裾野へ夏狩に出掛けた際、随行した土岐三郎は光衡と推測されるとあるが、三郎光衡と書かれているで、確かなんだろう
|
|
|
穏やかな顔の明智光秀の像
|
|
|
美濃源氏土岐氏は聖和天皇から出ている 光秀の名前も一番左下にある
|
|
|
この説明看板は文字が多過ぎて、読む気にならない
|
|
|
八幡神社境内の裏に低い土塁あるが、往時の土塁なんでしょうか?
|
|
|
高山城(再訪)
|
|
|
最初は穴弘法と言うところの駐車場へ行くが、山の上の城址にも駐車場があるので、車で山へ上がる
|
|
|
三の曲輪跡が駐車場になっている 慈徳院を目指して行くと、城址への標識が各所にあり、迷わず着けた
|
|
|
穴弘法から登って来ると、冠木門があるここに出る
|
|
|
高山城は、承久の乱(1221)の頃に土岐氏一族の高山伊賀守秀頼が築城 単純な曲輪跡があるのみで、遺構は残っていない
|
|
|
三の曲輪から一の曲輪への入口に、カッコ良い冠木門が建っている
|
|
|
大きな石の城址碑も中々立派
|
|
|
一の曲輪跡の平地 公園として整備されている
|
|
|
一の曲輪のフェンス下に、二の曲輪の石碑があるが、二の曲輪へは下りれない
|
|
|
一の曲輪の石碑があるが、遺構が無いので物足りない
|
|
|
自由に上がれる櫓が建っている
|
|
|
高山城の大きな看板が印象的
|
|
|
櫓の上からの眺望 土岐川と土岐市街を見渡すことが出来る
|
|
|
一の曲輪の奥に井戸跡の石碑があるが、井戸らしき跡は何処にもない
|
|
|
三の曲輪の入口に堀切の石碑あるが、堀切は残っていないようだ
|
|
|
岩の上に山の神の碑 この大きな岩を山の神として崇めたようだ
|
|
|
根本城(再訪)
|
|
|
武田氏が東濃を侵攻した際に、武田氏の一族の若尾氏が最前線として築城 1582年、武田氏滅亡後は若尾元昌は森長可に従うが、小牧長久手の戦いで嫡男の若尾元美が討死している
|
|
|
根本城の縄張図 曲輪と堀切の遺構が残っている
|
|
|
登城入口に、駐車場がある墓地があり、駐車の心配はない
|
|
|
既に足はガタガタで、城址に辿り着けるか心配だが、頑張って登る 城址への標識が各所にあり、迷う心配は無い
|
|
|
長いジグザグの登城道が続く 10歩歩いては立ち止まる、超スローペースで登っていく
|
|
|
30分程歩くと、旗挙げの松の標柱がある所に到着 この辺りから城郭になるようで、主郭は直ぐ上にある
|
|
|
主郭と搦手曲輪の間の大堀切 文化財保護のため進入禁止で、ロープが張られている
|
|
|
大堀切から主郭へ入る 後で気付くが、こちらは搦手口のようで、大堀切の手前は搦手曲輪になっている
|
|
|
土塁の上に、根本砦跡の標柱が立つ 根本城は多治見市の指定史跡になっている
|
|
|
主郭から多治見市市街を望むことが出来る
|
|
|
土塁の上もロープが張られて、大堀切へは進入禁止で、とてもつまらない 実は内緒でロープを潜って大堀切へ降りる
|
|
|
大堀切の奥の曲輪は、搦手曲輪の案内板が立っている
|
|
|
やはり堀切は下に降りて、V字になっているのを見たい
|
|
|
堀切から竪堀が谷へ落ちている
|
|
|
搦手曲輪も進入禁止だが、堀切を上がってちょっと入る 当然文化財を荒らさないよう静かに入る
|
|
|
尾根上に搦手曲輪が広がっている
|
|
|
搦手曲輪から大堀切越しに主郭を見る 主郭の土塁の高さが良く分かる
|
|
|
主郭から下段の二の曲輪へ ここが主郭の大手虎口と思われる
|
|
|
二の曲輪から主郭を見上げる 主郭の壁も切岸と思われるが、ここは簡単に下りれた
|
|
|
二の曲輪の平地は結構狭い
|
|
|
主郭に戻り、大きく深呼吸して今日の城址巡りを終える 因みに根本城の散策は、1時間15分でした
|
|
|