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川尻城
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城址へ上がる標識あり 車でも上がれるが歩いても直ぐです
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主郭の手前にある冠木門
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歩いて数分で主郭に着く 広い主郭に城址の木碑と案内看板ある
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天授年間(1394〜1428年)に奥平貞俊が築城とある まだ室町時代初期の城跡
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石碑の方が立派だが、木碑でもあれば嬉しい
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主郭の周りにはしっかりと土塁が残る
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主郭に立派な忠魂碑が立っている
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作手には幾つもの城跡があり、歴史の小径として整備されている
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鴨ヶ谷古屋敷
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鴨ヶ谷古屋敷跡に建つ甘泉寺
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国指定天然記念物のコウヤマキ
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甘泉寺に長篠の戦いで有名な鳥居強右衛門の墓がある
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古宮城
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年武田信玄が東三河侵出の拠点とするため、1571年に馬場美濃守信房に築城させた 1971年は三方ヶ原の戦いの前年
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白鳥神社の背後の小山が古宮城跡
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神社から城跡へ入る 案内看板に色んな遺構が書かれており、何かワクワクする
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直ぐに迫力ある遺構に直面する
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土塁、切通し、虎口と数多くの遺構が分かる
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狭い土橋があちこちに延びている
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深い竪堀で主郭を東西に分離している
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竪堀を歩くと、山の中央を分断しているのがよく分かる
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西域の主郭部 主郭ぐるっと土塁で固めている
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東西分断する竪堀は相当深い
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はっきりと縄張や遺構を理解できないが、それでも見るだけで感動する
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亀山城
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道の駅つくで手作り村の直ぐ裏の山が城跡で、城址公園として整備されている
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5/12の日曜日に古城まつりがあるようだ
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古宮城に続き亀山城もしっかり遺構が残っている
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濠と案内あるが、深い竪堀で本丸を防衛している
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広い二の丸跡
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二の丸を取巻く腰曲輪
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二の丸から本丸への虎口
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本丸跡
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本丸西側の土塁に立つ、亀・山・城・址の大きな看板 国301号からもよく見える
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本丸に城址の石碑と案内看板ある
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上野国奥平から作手に出てきた奥平氏、鴨ヶ谷の甘泉寺に住み、川尻城を築き、その後手狭になると亀山城を築き移る 奥平氏の動きが解明できスッキリ
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本丸に城址の縄張図があるが、縄張図は入口に欲しい
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二の丸の反対側からの虎口 土塁を切り通した姿が美しい
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本丸防衛の高い土塁も見応え十分
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この看板も目立って中々良い
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石橋城
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石橋城跡の慈昌院 道の駅つくで手作り村の国道の対面にある
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慈昌院の本堂
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慈昌院の境内に、大きな土塁が残っている
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馬呂遺構
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馬呂遺構は、奥平氏の中下級武士の屋敷 看板はあるが場所が特定できず
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姫屋敷
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奥平氏関連の屋敷とされる
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蔵屋敷
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高台の上に、広いビニールハウスがあるのみ
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文殊山城
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武田氏との和睦の証として、三河亀山城の奥平氏が文殊山に築いた砦城とある 奥平は一時期家康を裏切ったと言う事か?
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文殊山城の本丸跡 周囲は土塁が残る
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本丸に城址の石碑と文殊菩薩がある
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櫓台から作手盆地を取巻く山々が見える 位置がハッキリしないが、今日巡った城跡も見えていると思う
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物見櫓があり上がれるが、狭く急階段でとても危険
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城址のすぐ下に駐車場あり車で来れる 誰かのネットに砂利道・悪路と書かれていたが舗装された車道
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文殊山城の登城道から分岐して、塞之神城への道がある
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塞之神城
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文殊山城の登城道の分岐点から、尾根道を歩き10分で本丸手前の大きな堀切跡に着く
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文殊山城と同様武田氏との和睦の証として築かれたとある
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本丸周りにはしっかりと土塁が残っている
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本丸西側の虎口
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反対の東側にある虎口
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本丸を取巻く腰曲輪
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作手には幾つもの城址が集中しているが、遺構がしっかり残っている所が多く、大感動・大満足の山城巡りが出来た
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