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小田井城
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小田井城は、信長の祖父の織田敏定が築き、後に清洲城の支城になった
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小牧長久手合戦では家康側につき、合戦後秀吉によって小田井城は廃城
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萱津古戦場
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信長と清州織田氏が戦った萱津合戦 この石碑は道からちょっと奥にあり、見つけるのに苦労しました
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清洲城
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鍋片公民館の所にある石碑 居之とはここに居たという意味なんだろうか?
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松蔭神社とは吉田松陰のこと何だろう 清州城と何か関係あるんだろうか?
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清州公園に車を置いて散策開始 因みに駐車は無料
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濃姫像と織田信長の像
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濃姫と信長は1548年に結婚 信長は1534年生まれなので14歳
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濃姫は1535年?生まれなので13歳
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中々良い顔している
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濃姫もかなり美人だ
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清州公園で見るべきものは、濃姫と信長の像のみ
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人間五十年 下天の内をくらぶれば、... 信長の好きな敦盛の詩が刻まれている
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五条橋の横にある清洲古城趾の石碑
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清州公園から歩くが、清州城にも無料の駐車場あり
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清州城の入場は300円
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桶狭間の戦い前の、信長が尾張統一するまでの過程が良く分かる
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尾張守護の斯波氏 その家来に当たる守護代が織田家
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清州城の歴代の城主たち
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実際は清州城に天守閣は無かったのでは?
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清州の町は高い建物が無い
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火縄銃を体感出来る そんなに重くなかった
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清須会議をテーマにした紙芝居
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こちらが清州城の正面
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信長塀 桶狭間の戦勝祈願のお礼で熱田神宮へ奉納した、と説明ある
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裏の搦手門から入場して大手門を出る
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来る時五条橋を渡ったが、大手橋を渡れば公園まで直ぐだった 公園からは鉄橋でこの赤い橋が見えなかった
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発掘調査で出土した石垣
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本当の清州城跡はこの辺りだったようだ
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清州公園と清州古城公園は鉄道で分断されている
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清州古城公園入口にある城址の石碑
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古城公園にある織田信長を祀る社
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デッカイ右大臣織田信長公古城跡の石碑
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美濃路の清洲宿本陣跡
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正覚寺に桶狭間で敗れた今川義元の塚がある、と言うので立寄る
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信長は今川義元を丁寧に葬ったようだ
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増田屋敷
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豊臣政権五奉行のひとり増田長盛の生誕地
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増田長盛は検知奉行を務めたとあるので、有名な太閤検地を推し進めた人なんだろう
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浅野屋敷
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豊臣五奉行の浅野長政の養父浅野長勝の屋敷跡
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長光寺の隣りの民家に浅野長勝宅址の石碑がある
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長束正家邸
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屋敷跡にある白山社と大光寺 寺と神社が一緒にあるが、寺の本堂が見当たらない
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跡地からちょっと離れた所に、長束正家邸址の石碑ある
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長束屋敷は、豊臣五奉行の一人の長束正家の屋敷
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北島城
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北島城は文保年間(1317〜19)に平経貞が築城し居城
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大矢城
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福島宰相宅
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福島正則も秀吉と同じ中村と思っていたが、海部郡美和町二ツ寺の生まれだった
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福島正則と言えば加藤清正と同様、賤ヶ岳七本槍で有名
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桶狭間の戦いの翌年生れで、大阪夏の陣で豊臣崩壊以降まで生きている
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福島正則公の菩提寺菊泉院
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菊泉院の境内及び本堂 中々美しい
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福島正則公の記念碑
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福島正則公の供養塔
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蜂須賀城
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蓮華寺入口に蜂須賀城趾の石碑と案内看板がある
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蜂須賀小六もとは野党、時は人を作り人はまた時を作る... こんな事を言う人には思えないのだが?
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また一段と大きく立派な石碑
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蓮華寺の近くにある圓龍院 この辺りが城跡
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圓龍院に立つ蜂須賀小六正勝公舊宅趾の石碑
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勝幡城
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勝幡城は、信長の祖父織田信定が築城した城
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勝幡城址の大きな石碑
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信長は清州で生まれたと思っていたが、どうもここで生まれたようだ
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城跡は日光川を挟んであったようだ
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名鉄津島線勝幡駅前に、織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像がある
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三位方印宅
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三位方印とは豊臣秀次の親の三好吉房のこと
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屋敷跡にある貴船社 秀頼誕生後は、秀次切腹、三好吉房も改易讃岐国に流罪 秀吉はすっかり悪人になってしまう
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