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長深城
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住宅地の中にある善正寺が城跡 寺は一段と高台にあり、何となく城郭ぽく感じる
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本堂の前に城址碑のみあるが、やはり城址の説明看板も欲しい
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梵鐘が一段と高い所にあり、物見櫓跡に造られたと思う
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中々見事な善正寺の本堂 寺の奥は雑木林で、遺構が残っているかも知れないが、見に行かず
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市場城
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市場城は別名朝倉城と言うようで、室町時代初期に朝倉氏が築城 1574年信長に攻められ落城している
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登城口を探すが、森の中は倒木で荒れ放題
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墓地と森の間の畦道を行くと城跡に入る 竹藪の中に土塁を確認出来る
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周りは荒れた竹藪だが、登城道は歩き易く問題なし
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中世の城館(朝倉城跡井戸)の石碑が立つ所に直ぐ着く
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底まで見えず水があるか分からないが、かなり深い井戸
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石碑のある所から、主郭へ上がる虎口
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主郭は広い削平地だが倒木が一杯
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主郭にある朝倉城址の石碑 遺構が残る中々感じ良い市場城址だった
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保々西城
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保々西城は、先の市場城の後に築城された朝倉氏の城 市場城と同様信長に滅ぼされている
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登城口が北勢中央公園にあると思い向かうが、途中で保々の里山公園を見つけ、そこが登城口
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登城入口は草むらで心配するが、草むらを抜けると歩き易い登城道になる しかし蜘蛛の巣は一杯で、枯枝を振り回しながら歩くことに
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登城入口から10分程で城址の石碑がある所に着く
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これは案内の石碑で、左が主郭へ右が屋敷跡となっている
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主郭の隣りに広い屋敷跡があり、まずは屋敷跡へ見に行く
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屋敷跡の仕切りがあると思ったが、進んで行くと道は倒木で塞がれており引き返す
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道沿いに土塁があるが、屋敷跡の仕切りがある訳で無かった 土塁の先の広い平地が屋敷跡と言うことだった
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主郭の方は、見事な遺構が目に入り、ワクワク気分で観察する
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主郭手前の土橋の両側は、とっても深い空堀
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土橋から主郭への虎口
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土橋と空堀と土塁と切通と虎口、素晴らしい眺めに興奮
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遺構はしっかり楽しめたが、歩き回った結果はこの通り
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田光城
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多比鹿神社の裏山が城跡 現在の地名は田光(たびか)と書くが、以前は多比鹿と書いたのだろう?
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多比鹿神社の本殿 本殿の左側を通って城跡へ入れたが
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神社北側の道路の左手の藪の隙間から入るのがお勧め、とネットに載っていたのでここから入る
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入ると直ぐに空堀と高い土塁 遺構はしっかり残っており嬉しくなる
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土塁を切通したこの景色は、城跡を如実に感じる
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深い空堀がずっと続くこの感じもとっても良い
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主郭へ入る大きな切通し 土塁の高さと切通の深さは圧巻
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城郭の縄張図が無いので、どの場所の遺構かよく分からないのが残念だ
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ここは主郭への虎口と思う 縄張図や遺構の案内を整備されたら、城址観光としても流行ると思うのだが
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主郭の下を覗くと曲輪が取り巻いているように見える
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広い主郭部だが木が乱立している 奥に碑のようなものが見えるが
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碑ではなく大きな木が倒れ、根のかたまりだった
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主郭の端に高台があり上がってみると墓場だった ネットに天守台の遺構が載っていたが、ここがそうなのかも知れない
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広い主郭を囲む長い土塁は凄いし、とっても美しく見える
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石が積まれた土塁がある 石は土塁の強度を高めるものだろう
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埋まっているがこれは井戸跡
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今日は余り期待していなかったが、市場城、保々西城、田光城と凄い遺構が残る城跡で、期待外れの大満足である
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杉谷城
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慈眼寺の西北の山が杉谷城跡
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慈眼寺と道を挟んだ所に山へ入れる所があり、ここが登城口と思われる
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入って上を見ると、迫力ある大堀切が見えるが、倒木だらけでこれ以上入るのはパス
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杉谷善住房が築城だが、彼は京から岐阜へ向かう信長を狙撃した人 狙撃は失敗し鋸引きの刑に処せられた
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切畑城
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細い山道を上がって行くと、未舗装の石ころだらけの道となる この辺りが城跡と思われる
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未舗装の道の土手の上は広い削平地 ここを勝手に主郭と見てよしにする
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山道の途上にある伎留太神社 何て読むのか?
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千種城
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何とか軽なら上がれそうな狭い急坂 上がると主郭に着く
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何とも大きく立派な千種城址の碑
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説明書きがあるが漢字とカタカナで読む気になれず
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整備された主郭と土塁
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土塁の端は落武者街道と看板ある 落武者と言うと平家の残党を思ってしまうが、全然関係ないか?
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城跡は城址公園になっていて、キレイに整備されている
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切通に続く土橋の感じがとっても良い
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土橋の両サイドの空堀はそう深くない 堀よりか両側の土塁が感じ良い
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土塁が高いと切通しの見栄えが良い
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切通しの虎口から主郭を見る景色がとっても良い
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千種城跡の下の入口 看板と石碑があり、本来はここの階段を上がって城跡へ行くべきだった
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千種城は、北伊勢と近江とを結ぶ交通の要衝に築かれていた 後醍醐天皇の名があるので、室町時代初期の城と思われる
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金ケ原城
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千種神社が城跡 千種城と500m程の所にあり、千種城の支城だったようだ
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千種神社の周りの森に遺構らしきものが残っている
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神社右側にはっきりとした土塁
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左側には更に大きな土塁が確認できる
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土塁を切り通した虎口で、神社境内に繋がっている
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ネットには遺構はないと載っていたが、中々良い遺構が残っている
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菰野城
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菰野小学校が城跡 関ケ原の合戦後、土方丹波守雄氏が築城と書かれている
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石垣で囲まれた通路があるが、この石垣はどお見ても当時の物と思えない
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力尾城
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見性寺が城跡
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見性寺は、菰野藩主土方氏の菩提寺 力尾城の歴史は不明となっているが、当然菰野藩主の土方氏と関係あるのだろう
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見性寺の本堂 質素だ風格を感じる
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見性寺に土方氏の墓地があるが、山沿いに墓地が広がっている 探し当てたと思ったら、城主の妾の墓だった
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妾の墓の対面の山肌に土方氏の墓地を見つける
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歴代の城主の墓が立並び、墓なのに結構見応えあり
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城主の娘の墓もあるが、娘なので小さい
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山の中の見性寺の墓地は中々感じ良い 土方氏の墓地は、本堂左の階段を上がった先にある
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宿野西城
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宿野城の西の小山が宿野西城 全然情報も無く山見て終わり
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宿野城
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三重聖十字病院の所に登城入口があるようだが、何処だか見つけれず
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遺構もあるようだが、今日は遺構に満足しており、真剣に探すことなく城址の山見て終わりにする
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