20.9.27 岡崎




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保久城


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保久城主山下家は、桓武平氏の子孫とある 応仁・文明年間(1467〜1487年)の頃、「円川の戦い」で松平宗家3代信光の攻撃を受け、4代山下庄左衛門重久は、大給城主長坂新左衛門と組んで応戦したが敗北する


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立派な堀切


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入って右手の山へ上がる


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壊れかけた物見台があるが、案内無いのでここが主郭か不明?


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下に見えるは下山小学校 城址は小学校の敷地内にあるのかも知れない?


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物見台の奥にも削平地があり曲輪跡と思われる


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小学校のプールの所から城跡を見る


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万福寺の入口の所に保久城主山下家の墓所がある


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保久陣屋


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1651年伊勢国亀山藩主石川忠総の七男石川総氏が4000石で構えた陣屋


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下山保育園の辺りが陣屋跡で石垣が残っている


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日近城


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広祥院の裏山が城跡で、本堂横から登城道が続く 後で気付くが広祥院から何カ所か登城道あり


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東側から回り込む登城道は、急坂の丸太段の道


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登城道にはあちこちに城址への案内あり、道に迷う心配なし


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城址とトイレの分岐地 トイレの方も一つの曲輪で大きな堀切となっている


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トイレの方の曲輪に看板が見えるので上がって見る


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看板は城址に関するものでなく、小鳥や樹木の日近の森の案内だった


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城址の方へ上がると馬走りの案内あり


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馬走りの先は、切岸がそびえる主郭の下に着く 右手には大きくてカッコ良い堀切があるが、堀切は帰りに見ることにして、左手の主郭へ進む


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主郭下を取り巻く帯曲輪の案内


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主郭への虎口


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広祥院から約30分で主郭に着く 主郭には城址碑は無く、朽ちた本曲輪の案内板が転がっていた


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1476年頃、奥平宗家3代貞昌が築いた城 貞昌は次男貞直を日近に配し、貞直は日近奥平家の祖となる


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主郭周りはしっかり土塁が残っている これは東側の土塁


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城址説明看板の奥(北)の土塁は結構高い


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主郭北側の下を覗くと、取巻いている曲輪が確認出来るが、主郭からは下りれない


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主郭の西下にある曲輪


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登りは東側の登城道で上がったが、西側にも登城道があり、帰りはこちらから降りることにする


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上がって来る時見た堀切 中々素晴らしい


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堀切の奥(北)も曲輪や空堀が連なり、中々見事な景観が広がっている


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北側の曲輪を西へ進むと、大きな堀切が現れる 主郭の西側は段々の曲輪が連なっているので、その曲輪間の堀切と思う


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更に進むとまたカッコ良い堀切 主郭にあった看板の鳥瞰図はイメージ的なもので、城郭がどうなっていてここが何処なのか、全然把握出来ず大いに悩む


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更に進むとまた堀切


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この上を上がると、主郭の西下に見た曲輪へ出るのではと思い、ちょっと危険な登りだが上がる


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上は帯曲輪になっていた この先も帯曲輪が続いているが、ここで戻ることにする


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先に見た主郭東の堀切を北側から見上げる キレイナV字型で惚れ惚れする


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西側の登城道 東側の丸太段の登城道と違い、こちらは狭いみぞ道になっている


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左手が降りてきた登城道 右手は武家屋敷跡の案内あるが、登りに使った東側の登城道へ出る


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広祥院の本堂 広祥院に日近奥平家墓所がある筈だが中々見つけれず


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広祥院にある見取図 登城道や曲輪の配置や墓所の位置が良く分かる 最初にこの図を見ておけば悩まずに済んだのにと思う


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見取図により日近奥平家墓所を見つける 武田に人質に出され殺された2代貞友の娘・おふうと奥平宗家貞能の次男・仙千代らの墓が屋敷跡の方にあるのを見取図で知るが、疲れ果てており見に行くのはパス


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秦梨城


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県道35号線から城址への脇道の入口に、石碑の案内”御城跡入口/是より一七三米”があり、脇道を進むとこの案内ある ここから城址へ入る


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入ると直ぐに石の秦梨城跡の碑がある


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城跡碑の上が城址と思うが、上がる道は無く藪に覆われている


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城跡碑の手前の藪の中に堀切らしきものが見える


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藪を掻き分け入ってみると、結構ハッキリとした堀切が見える


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丸山能頭城


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神明宮の境内に土塁があるが、城址は神明宮の奥にあり、城跡の土塁かどうかは分からない


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神明宮の奥に古墳がある


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古墳時代後期の円墳の案内あり 石室もしっかり残っている


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古墳の右手の道が登城道 小さな堀切を確認出来る


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一番奥に竜宮之宮 城址の案内が無いのでハッキリしないが、ここが主郭と思われる


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竜宮乙姫様が出迎えてくれる


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箱柳城


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正長年間(1428〜1429年)中根平右衛門盛清によって築かれた城 8代・中根肥後守忠良の次男、平左衛門正照は徳川家康の家臣として二俣城の城主をつとめたが、三方ヶ原の戦いで戦死したとある


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廃墟のなった民家の前の藪が城跡で、石垣が残っている


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渡城


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民家の入口に、堂々とした2つの石碑がある 一つは渡城址碑で、もう一つは長嶋氏(この民家の性?)の石碑


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鳥居氏本家は途中嫡子が無く養子姓を名乗り長嶋氏に改めたとあるので、この民家の人は鳥居氏本家の末裔の長嶋さんと思われる 凄い!


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城跡の民家のすぐ横に、鳥居氏発祥地の碑がある


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鳥居氏は、松平・徳川氏譜代の忠臣 関ヶ原の戦いのとき、伏見城を護って討ち死にした鳥居元忠は有名


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鳥居源七郎忠宗之墓 源七郎忠宗をネットで調べると、家康が人質時代、家康が帰ってきた時の為に兵器や兵糧蓄えたのが鳥居忠吉 忠宗は忠吉の子で、織田信秀が攻めてきた時に、渡城近くで奮戦し戦死している


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諏訪神社に渡古戦場跡の石碑があるので立寄る


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渡古戦場跡 松平清康の死後1547年、三ツ木城主松平信孝(清康の兄・広忠の叔父)と織田信秀x岡崎城主松平広忠の戦い 信孝勢が勝利し広忠勢は松平忠次・鳥居忠宗を失う


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渡古戦場跡の石碑


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細川城山城


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あの細川家は岡崎細川から出ている 79代総理大臣細川護熙も蓮性院を訪れ墓参している


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蓮性院の南の山が細川城山城跡


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足利一族の足利義季が当地細川郷に城を築き、 地名細川郷より細川義季と名乗り細川家の始祖となっている


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城址の案内は全然ない 曲輪跡は畑になっていて、土塁が確認できる


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大給松平家の菩提寺の松明院


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松明院の本堂


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松明院に大給松平氏の墓がある筈だが、案内が無いのでどれか分からす 間違っているか分からないがこの募塔を大給松平氏の墓として撮る


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最初に訪城した保久城の円川の戦いの碑 民家の庭に円川碑があるが、もう少し戦を窺い知れる案内が欲しい