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寺部城(再訪)
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高い土塁の上に立派な城址碑が立っている
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文明年間(1469〜1487年)鈴木重時が築城 江戸時代に尾張藩付家老となった渡辺守綱の居城となり、以後明治まで渡辺氏が続いた
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陣屋跡に井戸跡が3つもある
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陣屋跡の西側に残る土塁
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跡地の地面には土蔵、仏間、母屋と書かれた石碑が置かれ、建屋跡が分かるようになっている
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守綱神社 祭神は渡辺半蔵守綱
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古びた小さな神社
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城跡の近くにある渡辺家菩提樹の守綱寺(しゅこうじ)
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看板に守綱が槍の名手だったことが書かれている
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守綱寺に渡辺家の墓所がある
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入って正面が初代・守綱の墓
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車坂合戦場跡の看板を大きく撮るのを洩らしていたのが残念 家康の初陣の寺部城攻めのことが書かれている
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丸根城(再訪)
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城跡は、丸根城址公園として整備されている
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丸根城は室町時代末期に築かれた 城主は不明であるが、城が矢作川東岸に位置することから松平氏一族の居城と考えられる
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丸根城の見所は、何と言ってもこの凄い空堀と思う
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東から南回りで城跡へ入る 右側が北曲輪で左側が主郭
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主郭の土手は急斜面で切岸と思われる
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切通を抜けて、北側から虎口を見る
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主郭を取り巻く空堀
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北曲輪
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北曲輪と主郭の間の堀切を北曲輪側から見る
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北側は台地に続く地形であるため大きな空堀で防備、南側は谷地形を利用した自然の堀、と書かれている
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主郭跡は広い削平地
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主郭の東側は高い土塁が残っている
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主郭南側は自然の堀と看板にあるが、人出を介した横堀に見える
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主郭南側にも虎口?
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遺跡に井戸跡があるが、案内無いがこれが井戸跡と思って撮る
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岩倉城ノ浦城(再訪)
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入口から城跡は30mと案内あり、入って直ぐ城址碑と看板がある
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当時の原型を良く保っている城址と書かれているが?
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城跡の南沿いに道があるが、上の城郭部は荒れた竹藪
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東の曲輪と主郭の間の堀切と思うが、酷い藪で入る気になれない 原型が残る城址なのに、もう少し整備して欲しいものだ
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西端に何とか上へ上がれそうな所あり
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主郭へ上がったと思っていたが、実際は馬出しの所と思われる
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馬出の一段上が主郭と思うが、竹藪の中これ以上行く気になれず
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顕正寺に岩倉城主戸田又兵衛直矣の墓がある
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看板と立派な石碑がある廟所
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岩倉城主の戸田氏が、後の田原城の戸田氏で、家康の人質交換に関わっている
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古瀬間城(再訪)
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永正3年(1506年)松平弥三郎宗忠によって築かれた 宗忠は松平宗家三代松平信光より分かれた長沢松平勝宗の子
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浄願寺の裏山が城跡と思うと、大変な山登りを心配する
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浄願寺奥に登城口 大平の門の案内あるが、ここに冠木門があったようだが、今は柱一本が立っているのみ
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城跡は浄願寺の裏山の山頂でなく、寺から5分もかからない所で大助かり
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主郭下の曲輪 看板に櫓台と書かれている
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主郭への上がり
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高橋荘攻略の拠点として築城とある 高橋荘とは鈴木氏の寺部城のことだと思う
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主郭跡は梅林
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主郭に建つ物見櫓 豊田市が昭和57年再建したもの
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豊田市街が見渡せるが、豊田スタジアムが見えない
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主郭の手前にある、こせま城址歌碑の里
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歌碑の道の奥に小督局の墓所あり 宮中で一番の美しさを誇り、琴の名手と言われ、高倉天皇の寵愛を受けた小督局の墓が、何でここにあるんだろう?
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松平弥三郎宗忠公の墓
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霧山白山城(再訪)
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白山神社の裏にある急傾斜の長い石段 手摺が無い恐ろしい石段、踏み外して転げたら間違いなく死ぬと思われる
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四つ這いに成りながら何とか無事に上がるが、下りるのは無事には済まないと思う
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登城道は山の上へ続くが、険しく危険な道のようで登城は諦める 去年訪れた時もパスしている
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帰りは階段でなく山裾を下りる道があり一安心
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