21.2.21 新城




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亀山城(再訪)


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道の駅・つくで村に車を止めてもいいが、東へ入った所に大きな駐車場あり


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城址入口から本丸までは100m程で、登城道はキレイに整備されている


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本丸手前の東に延びる深い空堀


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空堀から見上げる本丸東側の壁 切岸の凄い高さは圧巻


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西曲輪下の腰曲輪 西曲輪の土塁も高くて中々凄い


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西曲輪の削平地


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本丸の南の虎口 堀切の高さも見事


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本丸と西曲輪の間の堀切


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堀切を通ると本丸の北下を取りまく腰曲輪 腰曲輪から本丸を見上げると、亀山城址の大きな看板が見える


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本丸側から南虎口の堀切を見る 土塁の高さが何とも良い


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本丸に城址石碑、説明看板、縄張図看板が立っている


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上野国より作手に移った奥平貞俊は、川尻城を築くが、その後1424年に亀山城を築城し居城する


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奥平氏は武田氏に従っていたが、天正元年(1573年)奥平貞能・信昌父子は武田氏を離反して徳川氏に帰属  家康は奥平貞昌を長篠城主として武田氏との最前線に配置した


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分かりやすい縄張り図で、これは有り難い


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本丸より西下の腰曲輪を見下ろす


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本丸の西側と東側の土塁


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本丸の北の虎口


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北の虎口は二の丸からの入口 二の丸の方に亀山城址の標柱が立つ


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二の丸の削平地 二の丸の北の堀切もカッコ良い


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二の丸北の堀切を通った所から、本丸の北の壁を見る 高さが何とも素晴らしい


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二の丸の南の虎口を通り、本丸の東下に出ると、大手址の標柱がある


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大手址の右側にある東曲輪 東曲輪→二の丸→本丸で登城が大手道のようだ


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東曲輪から二の丸へ入る虎口 ここは二の丸の南側になる


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二の丸から東曲輪を見下ろす


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二の丸をそんなに高くない土塁が囲んでいる


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二の丸の北の堀切


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二の丸の北の切通の道 北からの登城道・搦手道?と勝手に思う


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今日は季節外れの暖かさ そろそろピークで、辛い人は多くいるのでしょう


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石橋城(再訪)


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亀山奥平家2代貞久の次男奥平久勝の居城で、亀山奥平家の家臣となる 1537年石橋久勝の子繁昌は、主君への謀反が露見し、亀山奥平家の命を受けた土佐定雄に攻められ討死


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慈昌院が城跡で、本堂奥に土塁が残っている


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土塁の奥は結構深い空堀があるが、藪になっていてよく見えない


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土塁の堀切 慈昌院境内が主郭部で、堀切が虎口のような感じ


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土塁の上から慈昌院境内を見る やはり境内が主郭部と思える


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堀切を下りると、空堀が良く見える


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和田城(再訪)


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和田城跡は、車道で分断されたようだ


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城郭を分ける土塁? 城址の案内なく城郭が今一分からない


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主郭への虎口


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1537年、奥平主家に背いた石橋城主石橋繁昌を奥平勝次が討ち、1539年作手奥平宗家4代貞勝より和田を与えられて築いた城


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主郭の北は段郭が確認出来る


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主郭の西の空堀?


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増瑞寺屋敷


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増瑞寺の本堂 増瑞寺境内が城跡


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鎌倉末期に設楽荘から進出した設楽重清が最初に入った拠点 増瑞寺の南にある増瑞寺山門跡の石碑に、上に小さな字で”元設楽氏居館”と刻まれている


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増瑞寺の西の森と境内の間に大きな空堀あり


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西の空堀


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北の空堀


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本堂の奥に土塁も確認出来る


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道の駅・もっくる新城で昼食


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鹿のどて定食と猪の餃子 鹿や猪の食感は全然ないが、それなりに美味かった


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新城城(再訪)


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新城小学校の敷地内に城跡がある グラウンドの南東に大きな土塁


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土塁の上に石の城址碑が建つ


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1575年、家康の長女亀姫を正室に迎えた奥平信昌が築いた城 慶安元年(1648年)丹波国亀山藩主菅沼定昭の弟定実が七千石を領して入封、以後明治に至る


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縄張が分からないが、グラウンド辺りが本丸跡か? 今日は日曜日なので勝手に校舎に入ったが、学校やっている時には入れるんでしょうか


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建物は、東校舎を昭和55年に移したものとある 新城尋常小学校は明治20年に開校している


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グラウンド南西の藪に入ると、新城開府四百年の石碑がある


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南東の土塁の下は、凄い深い竪堀


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大善寺に奥平信昌の正室・亀姫の墓がある


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大善寺の本堂


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境内に案内あり亀姫の墓は直ぐ見つけれる


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宗堅寺に新城菅沼家の墓がある


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宗堅寺の本堂


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宗堅寺の本堂横に信玄砲の案内ある 信玄を撃った鉄砲があると書かれているが、本当なんでしょうか


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幕末まで11代続いた新城菅沼家の墓 各城主の立て札が立ち分かりやすいが、誰一人として知らない


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石田城


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城址の案内は無い 泉蔵寺の南西の森が城跡


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幅広の堀が丘を取り囲んでいる 外堀のように見えるが、どうなんでしょう


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城郭の東側の土塁 中々高くて凄い


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道は無いが何とか土塁に上がる 土塁から空堀を見る


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土塁の奥の分かりにくい所に、石田城趾の碑が立つ


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土塁の西の削平地 ここが主郭か?


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土塁の南下の郭


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石田城址の縄張が全然分からず 東側のみ見て終えてしまった気がする


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野田城(再訪)


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1508年菅沼定則によって築かれた 田峯菅沼氏の定忠の三男定則は野田菅沼氏の祖


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1573年武田信玄が東三河に侵攻、野田城は金山衆を用いて井戸水を抜き落城


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本丸と二の丸の間の横堀 中々深くて凄い


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二の丸と本丸の間の土橋 本丸と二の丸は、土橋を挟んだ深い横堀で分断されている


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土橋の南側の横堀


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土橋の北側の横堀


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本丸側から土橋を見る キレイでカッコ良い


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本丸の土塁の上に城址碑が建つ


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井戸が本丸に掘られている


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金山衆により水抜きされて?井戸に水なし


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広い本丸


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本丸の西端の一角 ここで信玄を狙撃した


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鉄砲の名手・鳥居三左衛門が撃ったそうだが、信玄は道を挟んだ法性寺の高所にいる 結構な距離があり、火縄銃で本当に命中させれたのか疑問


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本丸の土塁上に野田城稲荷


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二の丸の案内板 中は藪


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三の丸の案内板


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三の丸は、入れそうな道がありちょっと入ってみるが、藪の中だった


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法性寺は信玄公が撃たれた場所


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法性寺に、野田城の二の丸赤門が移設されている


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野田城戦死病没者慰霊供養塔


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ちゃんと案内があります


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信玄が撃たれた場所はかなりの高所にある


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風流に笛の根を聞くような場所じゃない


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村松芳休の笛の音に聞き惚れていた所を、鳥居三左衛門の鉄砲に討たれ、重傷を負って甲斐国に引き上げる途中で亡くなった


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信玄も耳に手を当て笛の音を聞いていたのだろう


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法性寺の境内は梅林 もう満開になっている


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大野田城(再訪)


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中市場池の奥の森が大野田城跡


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森へ入ると直ぐ堀があり、堀を下りて上がると主郭だが、整備された道は無い 


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建武の新政の頃は富永氏の砦 桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、野田城主の菅沼定盈は家康に属し、1561年今川軍・氏真の進撃で開城を余儀なくされ、大野田城へ移った


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城址の案内も碑も無い ネットに碑があると載っていたが、探さなかった


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主郭北の浅い堀


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主郭の南 主郭へ入る土橋か?


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土橋より 主郭を囲む横堀か?