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玉城(再訪)
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ここを入った所に登城口がある 熊の看板があると、どおしてもビビッてしまう
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登城口に東海自然歩道の案内あり 城山600m/20分と案内あり
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整備された登城道で歩き易いが、かなり急坂
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本丸の切岸 北東から本丸へ入る
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本丸の虎口 本丸に休憩小屋が建っている
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つい最近、玉城のTV放送があった 関ヶ原の戦いで秀頼を出陣させ、ここに本陣を置こうとした 切岸、竪堀、土塁、本丸の広さ、等の紹介があった
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玉城の関ヶ原の戦いに関する案内は全然ない 城山は、南北朝期に足利尊氏に追われた佐竹義春が砦を築いた、とある
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本丸は北東から南西に広がる 北東の小屋がある辺りが、一段高いので、ここに秀頼を迎える御殿があったのではと思う
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本丸の北斜面の切岸
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本丸の南西の端の大きな堀切
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堀切下に下りると、切岸の高さが良く分かる
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南に落ちる竪堀
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北へ落ちる竪堀
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北へ落ちる竪堀を渡って、本丸の北側の切岸下へ
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本丸の北側の斜面は、高く長い切岸が続く見事な眺め
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本丸の北側は畝状竪堀群で、幾つもの竪堀がある
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関ヶ原の戦いで秀頼が出陣していたら、東軍についた秀吉子飼い武将は、秀頼を攻撃することは出来ずに、西軍勝利は間違いなかったのに、残念でならない
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本丸の北斜面下を進むが、本丸へ上がれるか心配したが、北東の端のここから何とか上がれる
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直ぐ上が本丸と思ったが、何段かの帯曲輪になっている 本丸の北側は関ヶ原平原の方向で、より防備を固めたと思われる
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実際には4段の帯曲輪があった
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小竹の藪を通って、本丸にある休憩小屋の所に出る
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本丸からの伊吹山の眺め 関ヶ原平原は木々で望めないが、往時は良く見えたと思う
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玉城跡まで登城口から25分程のキツイ登りだったが、特に切岸と竪堀の遺構に感動し、とても満足出来た
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京極氏上平寺館、上平寺城
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伊吹山の南麓一帯に、戦国時代に北近江を支配した京極氏の遺跡がある
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伊吹神社は京極氏の館跡 鳥居を入って長い参道沿いに、京極氏の遺跡が幾つかある
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永正年間に京極高清によって築かれた 太平記で佐々木道誉なる人物が足利尊氏を助けているが、佐々木道誉は京極道誉であり、室町時代に京極氏は勢力を拡大している
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薬師堂 駐車場の看板に、上平寺の本堂と説明あったが、上平寺と言うお寺はもう無くなっているいるのか?
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広い平地の弾正屋敷跡 弾正は誰なんだろう?
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蔵屋敷跡もとても広い敷地 ここに色んな蔵が多く建ち並ぶ、京極氏の強大さを想像する
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隠岐氏屋敷跡 京極氏は隠岐の守護職もしていたので、家臣に隠岐氏がいたと思われる
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隠岐氏屋敷跡は、敷地を囲むように土塁が残っている
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京極氏屋形跡 広大なスペースで、立派な御殿が建っていたと思われる
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応仁の乱以降、北近江の戦国大名として、館や詰め城の上平寺城が整備されたとある 京極氏の家臣の浅井氏はクーデターを起こし、上平寺は焼失したと書かれている
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屋形跡の奥に庭園跡が残っている 戦国時代の武家庭園は、全国的にも貴重な遺跡とある
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戦国武将も戦うだけでなく、庭園を愛でる風情があったようだ
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石と池の質素な庭園が中々感じ良い
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伊吹神社の階段を上がる手前に、上平寺城址への登城道がある
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登城前に伊吹神社を参拝
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神社の本殿の隣に、京極氏一族の墓がある
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神社に墓があるのか不思議 昔は神も仏も一体だったようだ 神社からも登城道があると思ったが無かった
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伊吹神社の階段下の登城口から、上平寺城址まで50分と書かれている
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やはりこの看板がある ビビリながらの登城となるが、鈴代わりにスマホに登録してある歌謡曲を、音量を上げて歩くことに
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登城道は整備されているが、とても急勾配でキツイ
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伊吹山から下山してきた団体に会う 人に会うと熊の恐怖が少し和らぐ
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バテバテで心臓もかなり苦しいが、亀のスピードで頑張って歩く
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竪堀らしき地形が現れ、城址は近いと勇気が出る
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竪堀らしき地形の直ぐ上に、畝状竪堀の標柱があり、やはり竪堀と認識する 神社の登城口からここまで、1時間かかる
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南東の谷へ落ちる大きな竪堀
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竪堀群の上は三の丸の斜面の切岸 高さが何とも凄い
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南西側には幾重にも竪堀があり、畝状竪堀とあるのが良く分かる
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畝状竪堀の標柱の所から、上の三の丸へ上がる道 両側は土塁で防備している
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三の丸から下の畝状竪堀を見る
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中々広いスペースの三の丸 上の曲輪へ入る土橋がカッコ良い
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頑張って来た甲斐は十分にある
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上の曲輪への土橋を下から見る 美しい土橋の眺めです
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上の曲輪への入口 上は当然二の丸と思ったが、まだ三の丸の続きだった
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三の丸から二の丸へ入る所にこの看板あり 京極高清が築城しているが、遺構は1570年浅井長政が、信長の北近江侵攻に備えて改修している
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看板がある所・三の丸から二の丸への入口も、見事な土橋になっている
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土橋の右は東に落ちる竪堀
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土橋の左は西に落ちる竪堀
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圧巻の竪堀に大感動
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土橋を渡ると二の丸の虎口
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二の丸の虎口は、高い土塁を堀切している 敵がここを通り抜けるのは、土塁上から攻められ至難の業と思える
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二の丸に入って虎口を振り返る
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二の丸の標柱 三の丸もそうだが、何で"伝"が付いているのだろう?
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三の丸にはなかったが、二の丸の周りは土塁で囲まれている
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二の丸の周りだけでなく、平地にも土塁があり、二の丸を分断しているようだ
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二の丸から更に奥へ繋がる土橋 この奥が本丸と思いきや
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奥は二の丸の続きで、周りを土塁がしっかり囲っている
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二の丸の奥に切岸があり、上が主郭の標柱が立っている
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二の丸と本丸の間の竪堀
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本丸への登り道は堀の底を通っている
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本丸への登り道と弥高寺への分岐 本丸は直ぐ上だが、急斜面で道幅は足幅程しかなくて、ちょっと危険な登り道
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本丸の虎口 本丸跡の標柱が見える
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本丸広場は草が刈られていてとてもキレイで有り難い さすが国指定史跡だと思うが、こんな山城の草刈りの大変さを思いやる
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本丸の周りをしっかり土塁が囲っている
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本丸から弥高寺の山が見える 弥高寺へは30分の険しい道と思われるので、登城は断念することに決める
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本丸からの関ヶ原ま眺め 朝登った玉城の城山は何処かにあると思うが、特定できない
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昼飯は家から持ち込んだ、パンとバナナとソーセージ もっと旨い物を買ってくればと悔やむ
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土塁の上から本丸広場を見る
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本丸の北下に堀切が見える
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キレイに伊吹山が見える 山頂の白いものは残雪のようだ
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本丸の北下にある大堀切 見応え十分な大堀切に感動
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深い竪堀が谷へ落ちている
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この先は弥高寺への登城道 弥高寺は伊吹山の五合目にあり、登城道は伊吹山の登山道であるのを認識する
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弥高寺
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弥高寺へ上がる道 ネットではかなりキツイ道と載っていた
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弥高寺は奈良・平安時代の山岳寺院 上平寺城築城時、城郭寺院として城塞化されている
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弥高寺は体力的に断念したが、キツイ山歩きに耐えて、素晴らしい山城の遺構を堪能出来て、大満足の城巡りとなりました
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