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朝6時半に家を出発して、7時半に名神の養老SAに到着して朝食 今日は鵜飼見物で長良川温泉の宿を予約してあり、昼間は関ヶ原の古戦場と大垣城を観光する
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徳川家康最初陣跡
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家康は長期戦を避ける為に、西軍の大垣城を素通りして、桃配山に布陣する
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桃配山は、関ヶ原の決戦地から3km程離れており、8時に戦いが始まると、決戦地近くに移動している
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家康は、ここから両軍の布陣の状況を見て、どう思ったのでしょう
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現在の眺め 中央奥の鉄塔がある付近が決戦地
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西軍は鶴が羽を広げた鶴翼の陣、対する東軍は魚鱗の陣で構えている
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徳川家康最後陣跡
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家康は合戦が始まると、西軍の三成が布陣する笹尾山の直ぐ近くへ本陣を移し、全軍の指揮にあたった
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床几場 戦いに勝利した家康は、ここに座って敵将の首実検をしている
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岐阜関ケ原古戦場記念館
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古戦場記念館は9時半の開館 有名なシアターは前日の15時までに予約が必要
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この娘誰だか分からなかったが、大垣城の籠城戦から脱出した、三成の家臣の娘・おあむ、と後で知る
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シアター予約してないので、開館前に並び、9時40分のシアターに空きがあり、見る事が出来た
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関ヶ原の戦いは、世界の3大決戦の一つになっている
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シアターは撮影禁止で残念だが、場面に合わせて風が吹き椅子が揺れて、大迫力でした これは一度は見る価値があると思う
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古戦場記念館の最上階は展望室 三成が布陣した笹尾山が見える
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展望室には可愛いロボットがいて、ちゃんとガイドしてくれる
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東首塚
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両軍合わせて15万が戦い夥しい戦死者が出た 勝利した家康は、戦死者の処理を命じ、地元の竹中重門が東西2か所に、戦死者を埋葬する首塚を造営している
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松平忠吉・井伊直政陣跡
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松平忠吉は家康の4男、井伊直政は忠吉の舅 東軍の先陣は福島正則に決まっていたが、徳川家が先陣を切ることが重要とした直正は、抜け駆けをする 激怒する正則の様子をシアターでもやっていた
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関ヶ原古戦場 開戦地
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午前8時、抜け駆けした松平忠吉・井伊直政は、宇喜多秀家隊に発砲し、天下分け目の戦いが始まる
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画面左側の松平忠吉・井伊直政隊が、写真には無いが右側に布陣している宇喜多秀家隊に発砲し、広い田畑となっている所で戦いが始まった
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写真右上にある、森の奥の小山が、小早川秀秋が布陣した松尾山
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小西行長陣跡
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開戦地の直ぐ隣に小西行長陣跡があるが、彼は開戦には参加しなかったのかな? 確か、小西行長は商人の出て、戦は弱かったかも
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島津義弘陣跡
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島津は開戦地の直ぐ近くにいながら参戦せず 参戦を促す三成の使者が、下馬しなかったのに無礼として激怒した、と書かれている
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島津が参戦していたら、戦いは西軍がかったかもと思える 歴史は全然変ったものになり面白かったのに
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参戦せずに西軍が負けると、"西軍に島津あり"を見せつけるため、家康本陣の敵中突破をやっている
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宇喜多秀家陣跡
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宇喜多秀家隊は、善戦するも小早川隆景の寝がえりで総崩れとなる 秀家は掴まるが処刑されず八丈島に流されて、84歳まで生きている
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福島正則陣跡
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豊臣家を思う気持ちは同じなのに、正則と三成は犬猿の仲だったとある
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関ケ原古戦場決戦地
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正午頃までは一進一退の攻防が続くが、小早川秀秋の寝がえりで、西軍は総崩れになる 西軍の敗因は三成が総指揮を執った事だろう 秀頼を総大将にして戦場に布陣していていれば、西軍が負ける筈もなかっただろうに
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石田三成陣地跡
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笹尾山の馬防柵がカッコ良い
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笹尾山は5分程で登れるとあるが、急な階段上がりに自信がなくパス
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何重にも馬房策で防御しているが、三成が布陣したのは当日の午前1時と書かれている 前もってここで布陣を決めており、準備したんだろうか?
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山頂に石田三成の陣旗が見える
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岡山烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡
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ちょっとした竹林を上がるが、真っすぐな竹が中々感じ良い
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午前8時、開戦が始まると、ここで攻撃の合図の烽火が上げ、笹尾山の三成隊へ攻撃が始まる
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ドラム缶の烽火台になっているが、やはり当時の烽火台にして欲しい
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烏頭坂 島津豊久碑
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的中突破した島津隊を、松平忠吉・井伊直政や本田忠勝が追いかけ、しんがりを務めていた島津義弘の甥の島津豊久が討ち取られる
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鹿児島から寄付された薩摩ペンチが置いてある
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大垣城
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水之手門跡は天守の直ぐ下 大垣城は本丸の城郭部のみが残っている
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圧巻な石垣に見惚れてしまう
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戌亥櫓
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大垣城の籠城戦で、おあむはここの松の木に縄をかけ脱出した
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おあむは三成の家臣の娘
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西門に建つ立派な門櫓
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西門を出ると城西広場で、戸田氏鉄公の騎馬像がある
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戸田氏鉄は、大垣藩の初代藩主
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本丸南側にある鉄門跡
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立派な天守が聳え立つ 天守は戦前は国宝だったが、空襲で焼失し昭和34年に再建されている
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関ヶ原の戦いのジオラマが迫力ある
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大垣城に入る前に、杭瀬川の戦い跡に寄るが、何にもない所で見るのパスしたのが悔やまれる
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関ヶ原の戦いの前日に行われた、杭瀬川の戦いは、西軍が大勝利している
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三成と記念撮影
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こちらは島左近と記念撮影
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大垣城は、おあむ物語が有名なようで、あちこちで出て来る
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天守閣は展望室だが外に出られない
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網越しでしか展望出来ず、展望は良くない
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天守の入場で、郷土館にも入場出来る 当時は凄い水堀と石垣で防御されていたのが良く分かる
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江戸時代の大垣藩主の戸田氏は、田原城の戸田氏と関係ありそう 竹千代が駿府に人質に出されるとき、田原の戸田氏は、竹千代を奪って織田氏へ差出している
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関ヶ原の合戦屏風図が幾つもある 関ヶ原に参戦した各武将が、それそれ作成していると思われる
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芭蕉の奥の細道が大垣まで延びているとは知らなんだ
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奥の細道の終点が大垣で、大垣に歌碑を散策するルートが設けられている
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最後に、大垣城と戌亥櫓をバックに記念撮影し、関ヶ原の戦いと大垣城巡りを終える かなり歩き疲れたが、とても楽しい観光が出来た
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長良川温泉 鵜匠の家 すぎ山
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宿の前は、長良川が流れ金華山がそびえる、とても景色が良い
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鵜匠の家とあるので、鵜匠さんが経営していると思う うかいパックの宿泊を予約しており、午後7時から鵜飼見物が出来る
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実際の鵜飼を見るのは初めてで、とても楽しみ
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岐阜県民割は9月末まで延長されて、利用できるのも嬉しい 2人で宿泊代が1万円引きとクーポン5千円が貰える
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予約は町側の部屋だったが、空いているので川側の部屋にして貰えた
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和室は起き上がるのが大変で好きでない 案の定、夜中トイレに起き上がるのに、とても難儀した
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夕食は会席料理で、一番の目当ては当然鮎
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ワンドリンクはサービス
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飛騨牛のしゃぶしゃぶまで食べれました ホント飛騨牛はやわらかくて旨い
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先回高山宿泊した時、鮎は背中が旨いので、背中から食べるのが一番と教えてもらった
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ここの仲居さんは何も言わなかったが、背中からかぶりついて食べる
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トマトの天ぷらが珍しい
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鵜飼
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鵜飼の観光船で飲食は出来ない
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宿泊宿・すぎ山のすぐ前で、鵜飼は行われた
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鵜舟を待つ観光船 鵜舟1隻に3観光船が並走して鵜飼を見る
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鵜飼を間近で見れるが、夜の撮影技術が無く、AUTOモードで撮るが、キレイに撮れない
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鵜が顔を上げたところを撮ろうとするが、中々うまく撮れない
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鵜舟が一列になって下り鵜飼する これが鵜飼のフィナーレの"総がらみ"か?
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鵜を上げて、鮎を取り出している
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一羽の鵜が一度に何匹の鮎を取るんだろう?
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鵜は鮎を取っても、飲み込んで自分で食べれないのは辛いだろうな
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鵜飼は観光ショーでやっていると思ったが、鵜匠にとっては、生活のかかった漁業のようだ
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鵜が取った鮎は、鵜のくちばして傷だらけになる
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鵜飼は1300年の歴史があり、信長や家康も鵜飼が好きだったようだ
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観光船は窮屈でちょっと辛かったが、初めての鵜飼見物は、迫力がありとても興奮して見物しました
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