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躑躅ヶ崎館 館跡は武田神社になっている
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武田神社入口の水堀 今は神社だが、当時の城跡の面影が残っている
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躑躅ヶ崎館は、信玄の父・信虎が甲斐を平定して、1519年に築く
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主郭土塁の案内
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案内板は主郭土塁とあるが、境内に上がる階段の両側は、見事な石垣門になっている
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階段を上がった所が主郭で、武田神社の本殿がある
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主郭に向かって左側が西曲輪で、西曲輪の南入口に馬出がある
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馬出は、信玄が得意とする城郭で、防御も攻撃も出来る曲輪
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西曲輪南の水堀
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西曲輪の南口の高い土塁と石垣
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信玄の有名な言葉に、人は石垣人は城、とあるが、やはり人だけでは防衛もままならず、石垣を用いている
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西曲輪にある塔 何の塔か分からず
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西曲輪は、ちょっとした紅葉が見れて嬉しい
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大きな土塁が、西曲輪を南北に分断している
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何か碑があるが読めない
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大正18年に誰かが寄贈した、信玄の軍配の碑
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西曲輪北側の枡形虎口
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西曲輪北側虎口の石垣
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枡形虎口と案内あるが、真っ直ぐで枡形に見えない
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高い土塁がカッコ良い
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土橋が感じ良い 土橋を抜けると味噌曲輪
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土橋の両側は深い空堀
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躑躅ヶ崎館の配置が良く分かる
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味噌曲輪は、現在発掘調査中
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味噌曲輪と稲荷曲輪の間の石垣
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小さな稲荷曲輪
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社も無い小さな稲荷さんが祀られている
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稲荷曲輪の先に隠居曲輪が続くが、ここで主郭へ引き返す
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西曲輪と味噌曲輪の間の土橋 もみじの木に覆われているが 何故か全然紅葉していない
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味噌曲輪と主郭の間の深い空堀 今は武田神社となっており、こんなに城跡の遺構が残っているとは思わなかった
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西曲輪から主郭へ
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この辺りはちょっと紅葉あり
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この配置図は、躑躅ヶ崎館の全体を表していなくて良くない
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主郭から西曲輪を望むと、中々良い景色
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主郭の周りは高い土塁で囲まれている
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信長はよく敦盛を舞っているが、信玄もここで舞っていたのだろうか?
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神社本殿前の紅葉が中々良い
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立派な武田神社本殿 当然信玄を祀っていると思うが?
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風林火山と書かれた大きな盃
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武田神社入口の階段の所が大手と思っていたが、主郭の東口が大手だった
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ここが主郭の東にある大手門
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大手を出た所の曲輪は、武田家臣の住居跡と思われる
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要害山城 国指定史跡になっている
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要害山城は、ちょっとした登山となるし、熊はいないが猪はいるとネットにあり、登城はパス
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要害山城は、武田信虎が1520年躑躅ケ崎館の詰めの城として築城 信玄は1521年ここで生まれている
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この山の奥に要害山があり、山頂までは約30分と案内あり
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登山道入り口にある温泉
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武田家の紋がある 今は立派な建屋だが、信玄の隠し湯の一つと思われる
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甲府城 別名は舞鶴城で、今は舞鶴城公園となっている
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遊亀橋から入城するが、いきなりの立派な水堀・石垣・塀、に興奮する
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舞鶴城で鶴の像があるが、鶴が山梨まで飛来してくるのだろうか?
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遊亀橋を通ると鍛冶曲輪 ここからの壮大な高石垣の眺めは圧巻 上は天守台の石垣
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鍛冶曲輪から稲荷曲輪への上がり階段
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鍛冶曲輪から西へ進むと日本庭園 砂が水の流れのように見える
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本丸下の石垣は何とも凄過ぎる
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坂下門跡の案内
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坂下門は、鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繋ぐ門
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中の門は、天守曲輪・本丸へ通じる門
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中の門跡の案内
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鉄門(くろがねもん)の案内
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何とも美しい鉄門
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鉄門は、明治初年に取り壊されたが、平成25年に復元整備された
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鉄門を支える梁 削り取った模様まで当時のまま再現されている
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ガイドが付き切りになって説明してくれる 鉄門は残された資料から、忠実に再現されたそうだ
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名古屋城の木造再建は、身障者対応で揉めているが、文化財は忠実に再築すべきだ、とガイドは言う その通りだと思う
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鉄門の石垣上から下を覗く 反り返った石垣が何とも凄い
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鉄門の櫓は自由に入れるが、入口から見るのみ
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銅門(あかがねもん)跡の案内
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銅門は、天守曲輪から本丸に通じる西側の門
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暗渠(あんきょ)の案内
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暗渠は、雨水などから石垣を守る為の排水の施設 覗くと向こう側が見える、とガイドが教えてくれる 女房は覗くが見えたそうだ
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本丸櫓跡の石垣 ここは下の稲荷曲輪から本丸へ入る虎口
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いよいよ天守台へ上がる 付き添ってくれているガイドが撮ってくれる
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天守台の案内 天守閣が実在したか否かは、分かっていないようだ
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この階段は当時のままで、簡単に上がれないよう一段が高い
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天守台の石垣から 西方面の眺望
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天守台より本丸を見る
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市街地の奥にリニアの実験線あり、静岡県知事・川勝さんの悪口を言い合う 俺が静岡県に駅が無いので川勝さんはゴネテいると言うと、ガイドは静岡に駅は要らんと笑って言った
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天守台から石垣を見下ろす
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北側の眺望 中央右に小さく三角の山が見えるが、あれは甲斐駒ヶ岳
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天守台はそんなに広く見えないが、この天守台は姫路城に匹敵する広さがあるそうだ
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本丸から稲荷曲輪へ下りる道から、天守台を見上げる
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新選組・近藤勇は甲府城に入って、薩長軍を迎え撃とうとしたが、先に土佐の板垣退助が入ってしまい、新選組は入れず、城の外で戦い敗戦している 新選組が先に入城していれば、戦いはどうなっていただろう?
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紅葉越しに稲荷曲輪を撮る
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甲府城は、1582年武田家滅亡後、秀吉が江戸の家康の抑えとして築城 関ヶ原の戦いの時の城主は、秀吉家臣の浅野長政だが、彼は家康側に与しており、複雑な気持ちだっただろう ガイドは長政が家康に忖度して天守閣を造らなかったかも、と言っていた
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日本ヤマナシの原木 この木より山梨の地名が付いた
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原木のナシの実はとても小さい
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稲荷櫓 明治の廃城で取り壊されるが、平成16年に当時と同じ土蔵造りで復元
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稲荷櫓の説明
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稲荷櫓も自由に見学出来る
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秀吉時代の築城なので、金箔の鯱だったようだ
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今の甲府城の鳥瞰図 石垣の凄さが良く分かる
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甲府城は、武田家を滅ぼした織田信長が手掛けたのが始まりのようだ
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稲荷曲輪から天守台を望む
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最後に、ヤマナシの木と天守台の記念撮影を撮る
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何度見ても、天守台の石垣の景色は素晴らしい
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稲荷曲輪と鍛冶曲輪を繋ぐ稲荷曲輪門
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稲荷曲輪門の説明
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鍛冶曲輪から稲荷曲輪門を見る
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今日はずっと雲の中だった富士山が、旅行最後に頂上を見せてくれた
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